たまみの畑から海沿いの道を行く。

今期は、町会長も務めるという忠明さん。

「今年は、町会長もやることになってね。小さな町なので、こういうのもね。」

圃場を回っている際も携帯電話が鳴って、お忙しそうだった。
町内のアナウンスを流すスピーカーの調子が悪いらしく、業者さんとの打ち合わせもあるそうな。

最後に向かったのは、海沿いの畑。

"たまみ"の畑だ。
たまみ。

たまみも、今はやりのオレンジとみかんの交雑種。
オレンジの香りと風味があるみかんのような感じ。

例によって手で皮が剥けて、糖度が高い。
ただ、種は多少入る。

今一つ、のし上がっていかないのは、私が察するに、味持ちが悪いからだと思う。

みかんなど柑橘類の多くは、収穫後に置いておくことで酸味が抜けて程よい食味になるが、こと、”たまみ”に関しては、特徴が薄れてしまう。
販売方法に努力が少し必要な柑橘なのだ。

12年前に訪れたときは、ネットを張るのはカラマンダリンくらいのものだったが、今回来てみると、ほぼすべての中晩柑類にネットがかかっている。

「ヒヨドリの害が増えていてね。イノシシも、以前はいなかったのに、海を渡って、繁殖してしまってね。」

泳いで海を渡るイノシシはテレビのニュースにもなったらしい。

ネットも何人かで協力して張らなければならない重労働だったが、今ではかなり軽くなり、二人で張れるようになった。

12年の月日は、こういったところにも技術革新を生んだようだ。

「船の時間まで余裕がありますから、島の西側を通りながら、港まで行きますか。」
「そうですね、ぜひ。」

島の人口は、約2000人。
私が島を一緒に回った限り、民家も多く感じたので、その多くは、もう人が住んでいないのかもしれない。
どんどん少なくなっており、石丸さんが子供のころは3校あったのが一つに統合され、小学校も中学校も一つだけ。
子供たちはバスに乗って登校する。
高校は分校が一つあるけれど、進学する場合、ほとんどの子が松山の高校に通う。

「私も農協に勤めていたころは、松山に住んじょってて、中島に帰ってきたんです。」
農協の技術指導員をしていたという石丸さん。
就農するために、中島に帰ってきた。

「松山に飲みに行くじゃないですか。そうしたらもう泊まりは確定ですわ。19時には最終のフェリーですからね。」

昼すぎに、フェリー乗り場でお会いした時の石丸さんの第一声。
「こんな辺鄙なところまではるばるありがとうございます。」と言った意味が分かった気がした。

松山で農協に勤めていたのなら、おそらくは方々へ出張にも行ったことだろう。
島がだんだんと辺鄙になってしまうのを感じたのではないだろうか。

「それにしても、島々がきれいですね。」

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