太田さんと照喜治さん。

1978年。

照喜治さんと太田さんは出会った。
もともと天草出身の照喜治さん。
九州にもよく足を運んでおり、佐賀には、無農薬でお茶を作りませんか?と呼びかけに来ていた。

青年期から農薬中毒に悩まされ、農薬に疑問を持っていた太田重喜さんが、その呼びかけに応じた。

あまり知られていないが、お茶は、農薬をたくさん使う。
残留基準値も高く許容されている。

茶葉の形がとても重要で、虫食いがあると値段が下がる。
そのため、農薬散布が非常に重要だった。

そして、茶葉から抽出したものを飲み、その茶葉自体は食さない、という理由から、農薬の残留基準値が高い。
東日本大震災後のメルトダウンでばら撒かれた放射性物質が茶葉から検出された際に、同様の理論で基準値を高くするようにお茶業界は通そうとした事も、私にはまだ記憶に新しい。

「そりゃそうだけど。。。」と思った。

照喜治さんは茶葉を粉末でとることを推奨していた。
お茶の優れた栄養価を、そのまま体に取り入れたほうが、よいはずだ、という考えだ。
ところが、当時は、お茶を無農薬で作る、なんて考える農家はいなかったので、上述したように、たっぷり農薬を使って育てられた茶葉は、そのものを体に取り入れる粉末茶には向くはずもなかった。

中学生のころから、家業のお茶栽培に携わっていた、重喜さんは、照喜治さんの考えに同調した。
自身の農薬中毒の経験もある。

薬にもなる、と伝わったお茶を育てているのに、なぜ体を悪くしなくてはいけないのか?

以来、徐々に、農薬の散布を減らし、3年目には、農薬散布をやめた。
当時としては、画期的なことだった。
太田さんファミリー。一番右が重喜さん。右から3番目が裕介さん。

それから40年近く経った今も、一切、化学合成された農薬は使用していない。

太田重喜製茶工場という屋号には、重喜さんの名前が今もつくが、経営は、息子さんである裕介さんに委譲。
りょくけんからは、佐賀の代理店も依頼して、佐賀緑健(有)の経営もお願いしている。

裕介さんや、太田さんのご家族総出で作ったお茶は、気品があって、香りがある。

裕介さんは、そこにまた改良を加え、紅茶や昨年からは、難しいとされてきた「ウーロン茶」も開発。

発展を続けている。

重喜さんの悩みは、、、

「開発した紅茶やしょうが紅茶は売れているんだが、、、本来の緑茶が伸び悩んでいるんだよね。」

販売者として、農家と消費者をつなぐメッセンジャーとして。

しっかりと太田さんの姿勢と商品を伝え、販売に当たりたい。

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